あのブラジル人J戦士のいま【第1回】ビスマルク――「自分のような選手を助けてあげたかった」

あのブラジル人J戦士のいま【第1回】ビスマルク――「自分のような選手を助けてあげたかった」

2020.7.13 ・ Jリーグ

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 Jリーグ創成記に眩いばかりの輝きを放った超大物ブラジル人選手。もしビスマルクが日本へ来ていなければ、Jリーグの最初の9年間の歴史は違っていたかもしれない。


 精巧なテクニックの持ち主で、ほとんどミスをしない。派手さはないが、状況判断が素晴らしく、常に最適のプレーをやってのけた。勝負強さも群を抜いていた。


 カリオカ(リオっ子)だが、ブラジル人の一般的なイメージとは正反対で、生真面目で物静か。


 敬虔なクリスチャンで、得点後、跪いて眉の間を右手でつまんで神に祈りを捧げるポーズが一世を風靡した(本人は、「点を取ったことにではなく、神様に日本という素晴らしい国でプレーする機会を与えてもらえたことへの感謝だった」と打ち明ける)。


 8歳の時、リオの名門ヴァスコ・ダ・ガマの下部組織に入り、16歳にしてトップチームからデビュー。あのロマリオとも一緒にプレーした。1989年のワールドユースでMVPに選ばれ、1990年ワールドカップに20歳で招集される、というフットボール王国のエリートコースを歩んだ。


 ヴァスコで5年間プレーした後、新たな挑戦をしたいと考え、Jリーグが開幕した1993年、23歳の若さでヴェルディ川崎へ。三浦知良、ラモス瑠偉、武田修宏らと創造性豊かな攻撃陣を構成し、二年連続でJリーグとナビスコ杯の二冠を達成。黄金時代を築いた。

  1997年に“宿敵”鹿島アントラーズへ移籍すると、今度は小笠原満男、本山雅志、中田浩二らと共に5シーズンで3度、J王者に輝く。2000年には、Jリーグ、ナビスコ杯、天皇杯の三冠達成という初の偉業を成し遂げた。


 2003年、ヴィッセル神戸を最後に引退すると、ブラジル有数の敏腕代理人と共同で代理人事務所を設立。リオとポルトアレグレにオフィスがあり、約60人の選手を日本、中国、欧州各国など約10カ国に送り込んで、忙しい日々を過ごしている。


 日本には、2005年にFWアレックス・ミネイロを古巣の鹿島へ、2019年に右SBマギーニョを川崎フロンターレ(今季から横浜FC)へ送った。


 引退後、代理人になることは現役時代から考えていたという。


「指導者になることは考えなかった。数十人の選手を管理し、クラブ関係者、メディア、サポーターらと良い関係を築かなければならないし、常に勝利を求められることは大変なプレッシャーだからね。


 選手時代、僕は代理人がいなくて苦労したので、かつての自分のような選手を助けてあげたいと考えた。代理人には色々なタイプがいるが、自分はあくまでも誠実に仕事をするのがモットー。誰に対しても決して嘘をつかず、約束は必ず守る。これは僕の父親の教えでもある」

  この仕事の醍醐味については、「才能がある選手を発掘し、その成長を助けて、成功に導くところ。選手が活躍したら、クラブとサポーターにも感謝してもらえるのも大きな喜びだ」と説明する。


 そして、選手が外国で成功するための条件として、「技術、フィジカル能力、戦術的な柔軟性はもちろんだけど、その国の人々、文化、フットボールのスタイルを尊重し、チームと監督にとって役に立つ選手になること」を挙げる。


「これまで、主にブラジル人選手を外国のクラブへ移籍させてきた。今後は、日本人選手を欧州クラブへ送り込む手助けもしたい。


 また、近年、ブラジルの大学などで、『世界のフットボール』などをテーマに講演を行なっている。今後、日本の大学や高校などでも同様の話をして、日本の若者たちに世界と世界のフットボールへの目を開かせてあげたい」


 毎年、何度か日本を訪れているそうで、「これからも大好きな日本との縁を大切にしたい」と語る。  


 選手時代はほっそりして精悍な顔つきだったが、現在はかなりふくよかな風貌に変わった。しかし、フットボールへの情熱は若い頃も50歳になった今も全く変わっていない。


取材・文●沢田啓明

記事提供:サッカーダイジェストWEB

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