“サッカーの常識”を打ち破った、FIFAワールドカップ カタール2022。優勝したアルゼンチンに感じた、レトロモダンの感覚

「世界中がまたサッカーを大好きになってしまう試合だったな」
喜びに沸く「リオネル・メッシと仲間の戦士たち」の様子を観ながら、そんなことを思った。
試合前の期待値、実際の熱量、破格の展開、驚天動地の延長戦を経て、美しいフィナーレ。サッカー界の生ける伝説たるメッシのストーリーが、ハッピーエンドとして史書に刻まれることが確定した大会だった。
リオネル・メッシを初めて観たのは、彼が16歳のときだった。FCバルセロナU-16のメンバーとして来日した彼は、特別な技術を持っていたけれど、まだ特別な選手にはなり切れていなかった。
対戦したU-16日本代表の城福浩監督(当時)も「そこまでの選手になるとは思わなかった」と率直に振り返っている。
あれから20年近くが経ち、メッシは「神の子」となり、生ける伝説へと昇華した。打ち立てた幾多の記録や獲得したタイトルについては、今さら触れる必要もないだろう。
マラドーナ時代の終焉と共に「個人の時代は終わった」などと言われていた1990年代以降の空気感を一掃し、われわれの常識を揺さぶってきた。
戦術的に洗練されたチームの敗退
そして今日、再び強く言われるようになったのは「個人に頼る時代の終幕」だ。
ジョゼップ・グアルディオラによってもたらされた一連の潮流は、確かにサッカーを革新し、今も革新し続けている。隠せなくなってきたメッシの肉体的な衰えと共に、そうした傾向は加速したようにも見えた。
実際、そのような見方は間違いとは言えまい。ただ、戦術的な洗練が進めば進むほど、ある種の可能性も見え隠れしてはいた。
たとえば、欧州チャンピオンズリーグという舞台で示されてきた、レアル・マドリードの強さは何と説明されるべきだろう。あるいは4年前のFIFAワールドカップを制したフランス代表は、何と語られるべきだろうか。
今大会もまた、「ある」と思われていたトレンドに寄った強豪は、東洋の島国、そしてアフリカとアラブの代表に撃破され、すでに滅びたかのように思われていた「偉大な10番を活かし、偉大な10番に活かされて勝つ」方向性に振り切ったチームがタイトルをもぎ取っていった。
古くさくて新しいチーム
優勝したアルゼンチンに感じたのは「レトロモダン」の感覚である。
古くさくて新しい。一周回って新しい境地に至る、そんなチーム。偉大な一人の選手が絶対的リーダーとして君臨し、彼を支え、彼に活かされることを無情の喜びとする戦士たちがズラリと居並ぶ。
1986年にタイムスリップしたようなチームでありながら、それゆえに新しく、戦術的な常道の策を無効化してしまう強さがあった。
準優勝のフランスも、その意味では近しいものがある。サッカーのスタイルも選手の個性も大きく異なるが、ピッチ上の11人が均等な役割を担うのではなく、バラバラの個性を噛み合わせることで、チームとしての出力を最大化するという方向性は同じだ。
「誰が出ても同じサッカーをするゲームモデル」が理想化される中にあって、エムバペなしでは成立し得ないサッカーを徹底するフランスと、メッシありきで組み立てられたサッカーを貫徹したアルゼンチンが、そうした潮流を凌駕した。
これはモドリッチなくして語れない3位のクロアチアも、スタイルこそ違えど、方向性は同じである。
戦術にタレントを当てはめていくのは、クラブチームの方向性だ。足りないポジション、足りない役割の選手がいるなら補強すればいいというのが、ビッグクラブのロジックである。
ただし、代表チームにこの論理は通用しない。そこに人がいないならば、いないなりに組み立てるしかないし、そこに人がいるのならば、いる選手を最大限に活かすしかない。
そして実際、一発勝負の連続となるFIFAワールドカップの舞台において、この攻略法は有効だった。
エムバペに頼ったフランス
大会前に「人」がいなくなったフランスが、戦い方をエムバペ依存型に振り切ることで、分かりやすい強さを打ち出せたのは象徴的であり、代わりの「人」の質の高さもまた、彼らの持つ「国力」の証明だった。
逆に、誰が出ても同じサッカーができるはずのスペインは、この大会を勝ち切るために必要な最大出力が不足していた。一つの明確な型を持つがゆえに、その破壊に特化した日本やモロッコの敷いた罠にハマり、破れなかった。
一周回って新しい、レトロモダン。サッカーが研ぎ澄まされるほど、原初的な価値観が重視されるようになった。かつてないほどハードワークの重要性が強調され、攻守の切り替えスピードを各チーム・選手が追求している。
それに伴い、アスリート能力もより求められるようになってきているが、冷静に考えれば全て“当たり前”である。
サッカーというスポーツのルールと特質を考えれば、すべてが当然のことに過ぎず、それらはきっと、人類がボールを蹴り始めた当初から、「人」に求められていた要素のはずだ。
醍醐味を堪能できた大会
決勝の記憶は生々しく、観戦した者たちの脳裏に刻まれたことだろう。余るほどの大金を稼いで満ち足りているはずのフットボーラーたちが、少年時代に戻ったかのように全身全霊を注ぎ込んで戦う姿は胸を打つ。
勝つための智恵を絞り、勇気を鼓して、仲間を信じて戦い抜く。それもまた、原初的な光景で、それゆえに魅力的なものだった。
戦術もあれば、駆け引きもある。人と人のぶつかり合いや、組み合わせの妙がある。代表チームはクラブチームと違い、選手を自由に補強することはできない。
また、満足な練習時間は確保できないが、バックボーンは自然と共有することができる。そのような特殊な集団が、戦うゆえの醍醐味を堪能できた大会だったのは間違いないだろう。
レベルの高い試合を観たければ、欧州チャンピオンズリーグを観ればいい。間違いなくそこには最高峰がある。ただ、そこにないものがあるのが、FIFAワールドカップである。
今大会は、古くて新しいものが充ち満ちていた。
この決勝戦を目の当たりにした人々は「またこんな試合が観られること」を願って、あるいは「この場に立つ者となること」を信じ、次のサイクルに向かって動き出す。
4年後もまた、その先の大会で、新しい伝説が紡がれるに違いない。(文・川端暁彦)