【私が見た阿部勇樹】最高潮は2010年…“ルーニー潰し”が窮地の岡田ジャパンを救うきっかけに

【私が見た阿部勇樹】最高潮は2010年…“ルーニー潰し”が窮地の岡田ジャパンを救うきっかけに

2021.11.25 ・ Jリーグ

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 2021年シーズン限りで現役引退を発表した阿部勇樹。その輝かしいキャリアを様々な記者に振り返ってもらう。浦和や日本代表で取材を重ねてきた記者が「最高潮だった」という2010年を回顧する。


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 24年間のプロサッカー人生の幕を閉じる決意をした阿部勇樹。1998年にJリーグ最年少記録(当時)となる16歳333日でデビューを果たしたばかりでなく、2017年にJ1新記録(当時)となる138試合連続フル出場の金字塔を打ち立てたことには驚嘆させられるばかりだ。


 最年少記録は才能に恵まれていることを示すものであり、30歳を超えてからの連続出場は不断の努力を重ねてきた証左である。才能と努力の両方を兼ね備えた、Jリーグ史に残る素晴らしいフットボーラーだ。


「中学生の頃にムエタイの選手になりたいと思ったことがある」と語っていたほどのキック力。守備的MFながら機を見て数的優位をつくることのできる攻撃センス。ムラのない安定したプレー。


 ジェフ千葉時代の05、06年に若きキャプテンとしてナビスコカップを連覇した時のパフォーマンスは勢い満点だった。浦和レッズに移籍した07年にはAFCチャンピオンズリーグ初優勝に大きく貢献した。

 

 平川忠亮(現・浦和コーチ)が「07年はチームの怪我人や出場停止で空いた穴を全部、阿部が埋めていた」と語る獅子奮迅の大活躍。そして、17年にはキャプテンとして2度目のACL優勝を成し遂げた。アジアを2度制している現役選手は阿部だけだ。


 このように、高いレベルを長く維持してきた阿部にとって“ここが最高潮だった”という時期はいつだろうか。思い浮かんだのは10年シーズンだ。


 阿部は浦和でのハイパフォーマンスが評価されて南アフリカ・ワールドカップの日本代表メンバーに選ばれた。浦和では守備では隙のないプレーを見せ、攻撃時の加勢は目を見張るほど。日本代表の岡田武史監督は4月に浦和の試合を視察に来たときに「勇樹が良かったね」と満足そうに帰って行ったものだ。


 こうして迎えたワールドカップ直前の親善試合。5月30日、日本代表はオーストリア・グラーツで、ワールドカップ欧州予選10試合で9勝1敗、34得点・6失点と破格の強さを見せていたイングランドと対戦した。この試合で阿部に与えられた任務はウェイン・ルーニー(当時マンチェスター・ユナイテッド)を抑えることだった。


 イングランド戦の前、岡田ジャパンは苦しい状況に追い込まれていた。5月24日に埼玉スタジアムで行われた“壮行試合”で韓国に0-2で完敗していたのだ。阿部は負傷欠場の田中マルクス闘莉王の代わりにCBとして先発出場。勝手知ったる埼スタでのプレーだったが完敗し、唇を噛み締めていた。


 韓国戦の前半6分。中盤でボールを奪われた日本は、相手のエースMFパク・チソン(当時マンチェスター・ユナイテッド)に一気にシュートまで持っていかれたのだ。阿部も対応したが間に合わなかった。


「セカンドボールでガチャガチャしたところを拾われて、(パクに)突破されてフィニッシュまで持っていかれた。打つとしたらあのタイミングしかなかったとは思うが、アタッキングエリアに入ってからの仕掛けには感じるものがあった」 パクに「世界」のレベルを突きつけられた。とはいえ、阿部個人としては手応えもあった。緊急先発ながら、及第点のプレーだった。だからこそこう言った。


「センターバックもボランチも過去にやったことがあるし、いろいろなポジションを与えられるなかでも、やってやろうという気持ちは、いつでも持っている」


 恩師イビチャ・オシムが授けてくれた「自信」が芽生えていた。のちに阿部は、オシムが「ポリバレント」の価値を世に示してくれたことが自信につながったと語っていた。


 韓国戦がチームとして最悪な負け方だっただけに、イングランド戦を起死回生のきっかけにしたいという気持ちは代表選手の誰もが持っていた。試合のポイントは、変幻自在なポジショニングから決定的な仕事をするルーニーをいかに抑えるか。


 ここで阿部はルーニー潰しのキーマンとして4-1-4-1のアンカーの役割を与えられ、期待に応えた。ルーニーに入るボールを封じるだけでなく、奪ってから攻撃へと素早く転じるプレーは、フォルカー・フィンケ監督の教えにより、普段から浦和でやっているコンセプトと同じだった。阿部は「役割がハッキリしていたので、やりやすかった」と語っていた。


 岡田監督はイングランド戦後に「ルーニーが下がってきた時にストッパーが行ったら勇樹が下がる、勇樹が行ったらストッパーがステイするということができた」と、最終ラインとの連係面を評価していた。南アフリカ・ワールドカップを4-1-4-1のシステムで戦うという腹が固まった。


 試合を見に来ていたオシムは「阿部があんなに良いプレーをしたのはちょっと記憶にない。彼には“自信を持て”と言い続けてきたが、今日のプレーで本当に自信を持てたかもしれない」と目を細めていた。


 そして、南アフリカ・ワールドカップで日本は史上初のベスト16に駒を進めた。阿部は間違いなく、その立役者のひとりだった。


 南アフリカ・ワールドカップ後に移籍したイングランドのレスターでのプレーを挟み、12年1月に浦和に復帰してからは、誰よりも先に大原に来てトレーナーに身体をチェックしてもらい、試合前後には交代浴を欠かさないなど、入念なケアで心技体を維持する姿がある。その姿勢は柴戸海や伊藤敦樹ら、次代の浦和を担う選手たちの目に強く焼き付けられている。Jリーグが誇る、浦和が誇る名選手である。


取材・文●矢内由美子(スポーツライター)



記事提供:サッカーダイジェストWEB

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