【U-20激闘譜】「日本の1つの指標に」黄金世代の凄さとは何だったのか? 生き証人・播戸竜二の回想録

【U-20激闘譜】「日本の1つの指標に」黄金世代の凄さとは何だったのか? 生き証人・播戸竜二の回想録

2020.6.30 ・ 日本代表

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 90年代以降、日本のユース世代は幾度となくアジアの壁を突破し、世界への挑戦権を手にしてきたが、そこにはこの年代ならではの課題や示唆に富むドラマが隠されている。長きにわたり、日本のU-20年代の取材を続けてきた識者が、ポイントとなった世代をピックアップし、キーマンに直撃。当時のチームについて検証していく。99年ナイジェリア・ワールドユースのチームを取り上げる今回は、Jリーグ特任理事の播戸竜二氏に話を訊いた。(取材・文●元川悦子/フリーライター)


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 小野伸二(琉球)、遠藤保仁(G大阪)、高原直泰(沖縄SV)、本山雅志……。強烈な個性を持つ面々が結集したU-20日本代表が、ナイジェリアで開催された99年のワールドユース(現U-20ワールドカップ)で準優勝の偉業を成し遂げたことは、日本サッカー界の輝かしい歴史の1ページとなっている。


 アジアを初めて突破して世界に挑んだ95年カタール大会以降、日本は計9回のU-20ワールドカップに参戦しているが、ここまで高い領域に辿り着いたのは、後にも先にもこの1回だけ。98年フランス・ワールドカップにたった一度だけ参戦したサッカー後進国の若い世代に、ここまでの才能と実力があるとは世界中の誰も知らなかったと言っても過言ではない。フィリップ・トルシエという指揮官がアフリカを熟知していたことも大きかったが、やはり選手個々に類まれなタレント性があり、卓越した個が集まって大きな輪になった。それが「黄金世代」の成功要因だったのではないか。


 彼らの始動は2年前の97年。最初に指揮を執ったのは「ドーハの悲劇」で知られるハンス・オフト監督の下でコーチを務めていた清雲栄純氏だった。岡田武史監督の下でフランス大会を経験した小野剛コーチ(現日本サッカー協会技術委員)や河内勝幸コーチがサポート役に回る形でチーム作りが始まった。


 軸を担ったのは、95年U-17世界選手権(エクアドル)に出場した小野、高原、稲本潤一(相模原)、酒井友之(浦和U-11コーチ)ら。そこにU-17代表候補だった遠藤や小笠原満男(鹿島アカデミーアドバイザー)、97年高校三冠を達成した東福岡の本山、手島和希(京都U-15監督)、金古聖司(本庄一高監督)らが加わって98年5月のアジアユース予選(アジア1次予選=大宮)を突破。3大会連続の世界切符を賭けて10月の最終予選(チェンマイ)に挑んだ。


 そのグループに急きょ、呼ばれたのが播戸竜二(Jリーグ特任理事)。高原と2トップを組むFWの人材不足に悩んでいた清雲監督が、練習生でガンバ大阪入りしたイキのいい点取り屋に目を付けたのだ。小野のリフティングを見ただけで「モノが違う」と驚きを隠せなかった雑草FWは「自分も絶対に食らいつくんや」と持ち前の負けじ魂を押し出し、最終予選に参戦。初戦で中国に2-2のドロー発進を強いられたチームに活力を与えた。

  特に大きかったのが、2戦目のイラク戦。高原の先制弾に続いて、播戸が豪快なボレーシュートを突き刺したことで、チームは停滞感を吹き飛ばす。この試合を6-2で勝利した日本は勢いに乗り、続くカタールを4-0で撃破する。宿敵・韓国には小野と本山が徹底マークされ、1-2で苦杯を喫したものの、グループを2位通過。本大会出場の懸かる準決勝・サウジアラビア戦に挑んだ。


 天王山は本山の先制点が早い時間に生まれ、日本が一気に突き放すかと思われたが、最終ラインのミスを突かれて前半のうちに2失点。1-2で折り返すというまさかのシナリオを強いられた。それでも実力派集団はまったく焦ることなく冷静に攻め込み、高原が同点弾をゲットする。そのシュートシーンはいったんGKに弾かれ、播戸が身体ごと押し込んだが、記録上は前者のゴールとなった。そこから絶対的エースは2点を重ねてハットトリックを達成。サウジを4-2で突き放して、首尾よく切符を手に入れた。


 決勝・韓国戦はまたも1-2で破れたが、播戸は稲本のタテパスに反応して抜け出す形から一矢報い、タレント集団の一員として確固たる地位を築くことに成功している。


「自分はあの大会が初めての国際大会。世界まで残ろうと必死で、その気持ちだけで戦っていた記憶がある。決勝の後、同じホテルに泊まっていた韓国のイ・ドングッ(全北現代)たちと朝まで語り合ったけど、そういう経験も励みになったし、もっと上に行かなアカンって気持ちにさせられたよね」と播戸はしみじみと言う。それだけ黄金世代の中で生き抜いていくのは難しいことだったのである。


 実際、日本サッカー協会の期待値も高く、この最終予選で優勝を期待していた。だが、韓国に2連敗したことを問題視。清雲監督はこの後、いきなり解任されてしまう。チェンマイを訪れ、黄金世代の才能に惚れ込んだトルシエが「自分が指揮すれば世界で勝てる」という確信を持ち、監督就任を強烈にアピールしたことも大きかったが、U-20世代の監督が途中交代するというのは滅多にない出来事。播戸は「勝負の世界の厳しさ」を痛感させられたという。


「清雲さんは僕らを締め付けることなく意見を聞いてくれたし、長所を生かそうとしてくれていた。自分はすごくリスペクトしていたし、やりやすい監督でした。それがいきなり『監督が代わる』と聞いた時には驚いたけど、プロ選手としては受け入れるしかない。世界大会に出るために、またゼロからアピールしないといけないと思いました」

  99年4月のワールドユース本大会までは半年足らず。トルシエはA代表、U-21代表も兼務していたから、ユース代表にそう多くの時間は割けず、新体制始動は2月にズレ込んだ。準備期間はわずかだったが、トルシエは前任者のやり方を踏襲することなく、あくまで自分流を貫いた。


 最初に着手したのは、4-4-2から3-5-2への布陣変更。「フラット3」という特殊戦術を浸透させるべく、清雲体制ではボランチのサブだった中田浩二(鹿島CRO)を左ストッパーにコンバート。最終予選メンバー外の辻本茂輝(鹿児島コーチ)も思い切って抜擢した。中盤は小笠原や遠藤を重用。攻撃的MFを主戦場としていた本山も左アウトサイドへ移動させ、ガラリと陣容を変えたのだ。FW陣も高原こそ無風だったが、相棒役の候補に97年ワールドユース(マレーシア)経験者でドイツ・カールスルーエでプレーしていた永井雄一郎(はやぶさイレブン)を抜擢。播戸と競争させることにした。


「永井君がトルシエのサッカーにフィットしているのは分かってたし、自分としては先発とか控えに関係なく、『どうしたら自分がこのチームに貢献できるか』を徹底的に考えました。本大会はサブに回ることが多かったけど、控えには控えの役割があるし、ベンチにいる間は精一杯盛り上げなきゃいけない。仲間をリスペクトしていたから、そういうことが自然とできましたね」と播戸は清々しい表情で言う。2018年末の引退した小笠原も「伸二には最後まで勝てなかった」と神妙な面持ちで話していたが、黄金世代はそれぞれの個性や能力を認め合い、リスペクトしながら前向きに競争できる最高の仲間だった。だからこそ、彼らは長きにわたって日本サッカー界のトップに君臨できたのだろう。


 トルシエというエキセントリックな指導者も多感な若者たちに多くの気づきを与え、化学変化をもたらした。ブルキナファソ遠征でガタガタ道を10時間移動して試合をし、衛生状態の悪い現地の食事を食べるなど、恵まれた時代に育った日本のユース年代には想像だにしないことだったに違いない。


「フランスのクレールフォンテーヌで合宿した時に『食事はまずサラダから取るんだ』と言い出したり、『みんなで話をしろ』とわざわざ同じテーブルに座るメンツを入れ替えたり、ナイジェリアでも孤児院に連れて行ったりと、トルシエは人間教育を重視して、あらゆる形で刺激を与えようとしていました。当時は携帯もネットもないし、アフリカは相当に過酷な環境だったけど、誰も『帰りたい』なんて言わなかった。僕がトルシエの真似をして盛り上げたり、98年フランス・ワールドカップ優勝のフランス代表が歌った『ラララの歌』をみんなで大合唱したりと、チームの一体感が日に日に高まっていくのを感じた。そういう和が勝つチームを作るんですよね」(播戸)

  類まれな結束力があったのは間違いない。だからこそ、彼らは初戦のカメルーン戦を1-2と落として黒星発進してもめげなかった。アメリカ、イングランドに連勝してグループリーグを1位通過し、ラウンド16のポルトガルとの120分間の死闘もPKの末に勝ち切った。


 そして準々決勝で前評判の高かったメキシコを2-0で撃破し、準決勝・ウルグアイ戦も2-1で勝利。気づけば日本勢初のFIFA公式大会ファイナル進出を果たしていた。さすがに決勝・スペイン戦は小野不在の中、シャビ率いる華麗なタレント軍団に0-4と完膚なきまでに叩きのめされたが、この試合以外は内容的にも技術・戦術的にも日本が上回っていることが多かった。そこは誇りを持っていい点だ。


「僕らは指導者に押し付けられることなく、自分で考え、情報収集して、努力を重ねて成長してきた世代。『自分らで上に行くんや』というガツガツ感も凄かった。その積み重ねで伸二やイナみたいな大きな個性とタレント性を持つ選手が自然と集まり、ユース年代で世界に勝ち、圧倒的自信をつけることができたんやないかな。黄金世代の軌跡や戦い方が日本の1つの指標になっていいと思う。あれから20年以上経ったけど、19~20歳で吸収できるものは本当に大きい。それを改めて強調しておきたいですね」


 ナイジェリア組の半数以上がユニホームを脱いだ今だからこそ、彼らの偉業を再認識し、日本サッカーのさらなる発展の生かすべき――。播戸はそれを強く望んでいる。(文中敬称略)


取材・文●元川悦子(フリーライター)

 

記事提供:サッカーダイジェストWEB

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