「あれで僕は本当にメディアが嫌になった」新ジダンと呼ばれた男の苦悩と挫折のストーリー【消えた逸材】

「あれで僕は本当にメディアが嫌になった」新ジダンと呼ばれた男の苦悩と挫折のストーリー【消えた逸材】

2020.7.6 ・ 海外サッカー

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 新ジダン――。フランスにはこの看板を背負わされ、期待に応えられないまま消えていった選手が大勢いる。ムラド・メグニもその一人だ。


 アルジェリア人の父とポルトガル人の母の下、パリ郊外のシャン・シュル・マルヌでボールを蹴りながら成長したメグニが、自身の才能を意識したのは13歳のとき。エリートだけが入れる国立の若手養成機関『INFクレールフォンテーヌ』に合格したのだ。


 翌年の98年にジネディーヌ・ジダン擁するフランス代表がワールドカップを制覇。エレガントなテクニックを誇る司令塔だったメグニは、ルーツも英雄ジダンと同じアルジェリアだったこともあり、周囲から「ジズー」と呼ばれるようになる。INF同窓生のジャック・ファティはつい最近も、「メグニの才能は特別だった」と懐かしんでいた。 当然、メディアが放っておくわけはない。フランス代表の背番号10として臨んだ01年U -17ワールドカップで優勝を果たすと注目度はさらにアップし、「新ジダン登場!」と騒がれた。もっとも本人は、「(比較されることに)疲れた」と当時、本音を語っている。


 メグニがいまも許せないのは、テレビのドキュメンタリーだ。U-17ワールドカップ王者に輝いたメンバー18人に1年間も密着し、プライベートも全て撮影した。ところが蓋を開けてみると、登場したのはファティ、ミカエル・ファーブル、メグニの3人だけ。ボローニャと契約交渉中だったメグニは、ことさらその部分だけフィーチャーされた。


 当時、やはりINF出身のジェレミー・アリアディエールが国内クラブを無視してアーセナルと契約。センセーションを巻き起こしていただけに、同じ事例として注目したのだ。


「カネにしか興味がないやつとして描き出したんだ」と本人が振り返る。


 その頃のメグニはINFからカンヌ育成センターに渡るも、当のカンヌが財政破綻。そのうえ国内の他クラブと契約できない取り決めだったため、活躍の場を国外に求めるしかなかった。だが、そうした背景は報じられなかった。


「あれで僕は本当にメディアが嫌になった。ジダンとの比較に加えて、あのばかばかしいルポ。あんまりだった」 00年夏に入団したボローニャではトップチームに早々と定着。04-05シーズンのセリエA4節、ホームでのローマ戦では2得点を挙げる活躍も披露した。


 だが、そこから停滞期に突入する。ボローニャのセリエB降格にともないレンタルで渡ったソショーでは怪我に泣き、07年夏には名門ラツィオへの移籍が実現したものの、ここでも才能を開花できなかった。


 A代表は09年にアルジェリアを選択した。10年ワールドカップの本大会出場に小さくない貢献を果たしながら、しかし、本大会前に大怪我を負って欠場を余儀なくされる。以降は怪我の連続で、ラツィオ退団後に渡ったカタールのクラブでも故障に見舞われ、ピッチにすらほとんど立てなかった。


 フランスに戻って両膝を手術したものの思うように回復せず、葛藤の末、29歳のときにアメリカに渡って専門医の診察を受ける。だが、診断結果は不明瞭なものだった。 未来への不安ばかりが募るなか、15年1月、気分転換もかねて兄が主宰するフットサルチームに加入した。だが、やはりフットボールが恋しくなり、同年7月、31歳でアルジェリアのコンスタンティーヌと契約をかわす。


「子供も成長してきたし、引退する前に僕のプレー姿を見せたかったんだ」


 17年までこのクラブでプレーを続け、プロキャリアに終止符を打った。33歳だった。


 現在のメグニは、8部リーグに相当するパリ郊外のアマチュアクラブ「ヴァル・ド・フランス」に所属。エレガントなテクニックを披露し、周囲の人々を魅了している。なぜこのクラブに所属しているのか。それは息子がU-11チームでプレーしているからだ。


「いまだにメディアで『元・新ジダン』なんて書かれることもあってね。腹が立つよ。そんな比較は一度も望んだことがないのに」


 5年前にそう語っていたメグニは、いずれ古い絆創膏のように貼りついたそのレッテルを剥ぎ取り、育成の分野で何かを成し遂げているかもしれない。


「ヴァル・ド・フランス」でメグニはいま、アシスタントの一人として少年育成(6~13歳のカテゴリー)にも関わり始めているのだ。


文●結城麻里


※『ワールドサッカーダイジェスト』2020年6月18日号より転載

記事提供:サッカーダイジェストWEB

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