元シャルケマネージャーが語るノイアーとラキティッチ。SD職の未来についても…/インタビュー

元シャルケマネージャーが語るノイアーとラキティッチ。SD職の未来についても…/インタビュー

2019.3.15 ・ 海外サッカー

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シャルケのSD(スポーツディレクター)であり、取締役でもあるクリスティアン・ハイデルが2月に退任となった。本人の申し出により、今夏までで契約は打ち切りに。その後任の一人と目されるのがエリク・シュトッフェルスハウスだ。


移籍市場で度々、上手くやってきた有能な人物であり、マンチェスター・ユナイテッドすら彼に食指を伸ばしているという。今回は『Goal』のロングインタビューでこの48歳の素顔に迫っていく。


波乱万丈な人生を振り返ったシュトッフェルスハウスは、既成概念に囚われないようドイツサッカー界に求めている理由と、カナダが若手育成の面で抜きん出ている理由を説明してくれた。


■「マヌはちっともひるまなかった」



――あなたのキャリアを振り返って気がつくのが、まず大学で教育を受けたことを強調されていることです。


高校を卒業してから私は、大手鉄鋼メーカーで工場作業員としての教育をしっかりと受けたんだ。そのおかげで私の基盤を作ることができたし、徐々にキャリアを積み上げることができた。本当に真面目にやっていたんだからね(笑)。けどそのとき自分を省みて、コーチの仕事のほうが自分に合っていると思ったんだ。そこで、大学でスポーツの学位を取ることにした。同時にサッカーの監督ライセンスも取得した。そのあと学生友達から助言をもらって、1998年にシャルケのユース監督に応募したんだ。そして実際に私はU11のトレーニングに関わるチャンスを手にし、一からコーチの仕事を学び始めた。たくさんのタレントがいる世代と向き合ったのは、本当に特別な体験だったね。


――特に少年サッカーから学んだことは何でしょうか?


当たり前だけど、若い子どもたちにはシニアとはまったく違う問題があるし、それにあった課題を出すんだ。たとえばシューズの紐の結び方とかね。これはよくあることだ。年齢に合ったアプローチを模索しなきゃいけない。たとえば、トーナメントで遠征すると、子どもがホームシックにかかったりもするんだ。


質問に答えるなら、彼らは才能に満ちあふれているけれど、それ以前にまだ子どもだってことかな。結果的に素晴らしいチャレンジだったんだけれど、あるときジュニア部門のボード・メンツェがどこからともなくやってきて、私にオフィスを移って子どもたちの面倒を見てほしいと言ってきたんだ。練習場での仕事が恋しくなるだろうと思いはしたけれど、その大局的なビジョンに興味を持ったから要請を受けることにした。しかも、その要請は完璧なタイミングだったんだ。ちょうどその頃ドイツサッカー界は変革の最中で、ゲアハルト・マイヤー=フォルフェルダー(ドイツサッカー連盟元会長)がタレントプログラムを始めたりしていた。あの時はDFBの職員や他のパフォーマンスセンターの人たちとたくさん話をする機会があった。私にこのキャリアを歩ませてくれたシャルケに感謝しているよ。


――後に偉大なキャリアを歩むことになる選手の少年時代を見てきましたよね。その中でもマヌエル・ノイアーはとりわけ大成功を収めた選手です。彼と初めて会ったときのことは覚えていますか?


ああ、よく覚えているよ。市大会の室内戦のことだったかな。マヌは当時D-Jugend(D-ユーゲント:11〜13歳の少年のカテゴリー)に所属していた。ウォーミングアップのときのことを覚えているよ。コーチがマヌの頭の高さにものすごく厳しいシュートを放ったのに、マヌはひるんだりしなかったんだ。彼は手を伸ばしてきちんと処理した。それほどの冷静なプレーができる少年をこの年代ではこれまでに見たことがないね。なにか言いたげにしている同僚を見つけてこう言ったよ。「あんなやつこれまでにいたか? 桁外れの才能だ」ってね。


■「ラキティッチは大人びた少年だった」



――2001年の5月19日と、2006-07シーズンではあと一歩で優勝というところに立ち会いましたね。ただ、シャルケは両シーズンとも結局チャンピオンになれませんでした。


2001年はあの時のことが話題になると、今でも鳥肌がたつね。あれほどのエネルギーをスタジアムで感じたことは今でもないな。そして、今までスタジアムで見た中で一番大きな悲劇だった。誰にも起こってほしくない出来事だね。2006-07シーズンは全く別の状況だった。あれは完全に私たちが責任を取らないといけないことだった。ボーフムに負けたことが停滞の原因だった。ゲーム全体を支配していたが、なぜか勝負に負けてしまって、気づいたときには栄冠を逃してしまっていたんだ。機能不全の兆しがあったことは明らかだった。ダービーでも負けて、シーズンを戦い抜く気力が尽きてしまっていた。あれは自分たちに責任があった。


――当時はチームマネジメントに従事しておられて、初めて移籍関連の仕事に関わっていましたね。ビッグネームとしてはイヴァン・ラキティッチの名前があります。彼についてはどうですか?


イヴァンの移籍は私にとって本当に特別なことだった。あの若かったプレーヤーがどのように成長していったかは、あまり知られていないだろう。対面した瞬間に加入選手の成功を正確に予測することは難しいものだけれど、イヴァンを空港に迎えに行ったときは、スペシャルな少年を獲得したのだとすぐに確信したよ。イヴァン・ラキティッチほど大人びた18歳を私は見たことがないよ。イヴァンは自分の将来のビジョンをしっかりと持っていて、明確なプランがあった。彼は年齢に見合わないほど豊かな人間性を持っていて、驚くほど成熟していた。彼の成し遂げたキャリアには脱帽しているよ。


――2009年にシャルケでの活動を終えてから、あなたはプロフットボールの仕事を続けられませんでした。それはどうしてでしょうか?


フェリックス・マガトがシャルケにやってきてから、たくさんの人がクラブを離れなければならなかった。その一人が私だったんだ。それは非常に辛い状況だった。当時私は11年もシャルケにいたし、とにかく心血をクラブに注いできたから、他のクラブで仕事をするということが想像できなかったんだ。だから一度サッカーの仕事を中断せざるを得なかった。そうしているうちに、大学に戻って博士号を取ろうと考えたんだ。このタスクはまだ続いている。今も頑張って授業料を払っているから退学にはなっていないよ(笑)。今ノートを探し出して学位論文を書き始めたところなんだ。テーマは、「DFL(ドイツサッカーリーグ機構)の要請に沿って行うシャルケ04の若手育成」だ。これはまさに私のトピックだけれど、だからといって1週間で書き終えられるわけではないよ。けれど、シャルケのアカデミーと他のアカデミーを比較して相違点を見つけていくのはとても興味深い作業だった。


■カナダではスポーツに大金がかかる


――学位論文を書くだけではなく、あなたは体育教師として数年働いていらっしゃいました。そこから学んだことを教えていただけますか?


スポーツと水泳を教えていたけれど、最後にいたオーバーハウゼンの学校ではとても面白い経験ができた。集団の統合がどうやってなされているか、そこで目の当たりにしたんだ。様々なバックグラウンドの子どもたちがいたけれど、そんなことは問題ではなかった。国ごとに子どもを分けてチームを作ったりは一度もしなかった。出身がどこかなんてつまらないことを聞かなくても、ボールを蹴れるようにならなくちゃいけないよ(笑)。


子どもたちに運動の楽しさを教えるのは、とても楽しかった。彼らはいつも校庭を走ってきて、「今日は何をするの?」と聞きに来る。子どもが互いに協力し合っているのを見るのは素晴らしいことだった。それを無駄な時間にはしたくなかったよ。


――その後、新たな仕事に就くときが来ましたが、また遠くの場所を新天地に選ばれました。なぜ海外に出ていきたいと思ったのでしょうか?


トーマス・ブロイッヒがこんな名言を言っていた。「一番大事なことは遠くにある」ってね。私はまさにそれを実行したんだ(笑)。そのとき気がついたんだけど、私は40歳にもなって、ルール地方の小さい世界から人生で一度も出たことがなかったんだ。全てのことは半径40キロ以内で起こっていた。私と今の妻は揃って冒険家だから、インターネットで職を探して応募したんだ。ニュージーランド、オーストラリア、アメリカ、カナダ……ネットには世界が広がっていた。ニュージーランド協会には私の給料を払えないだろうと言われて受からなかったけれど、私自身はお金のことなんか気にしちゃいなかった。仕事さえ興味深ければ、それでよかった。結局次の仕事はカナダになった。2013年11月、ウェストオタワSCでテクニカルディレクターを務めることになった。思いがけないことだったけど、全く新しいサッカー界に身を投じることになったんだ。


――2015年にはトロントのヨーク地域のサッカー協会に移られました。そこでの仕事を振り返っていただけますか?


まず知っておいてほしいのは、土地的にオンタリオはドイツの3倍も大きいということだ。私はいわば、ヨーク地域の協会つき体育教師のようなもので、サッカーのコーチと、体育教師と、それからビジネスマンとして積み重ねたことを融合させていこうとしていたんだ。草の根交流的なものも、ハイパフォーマンスセクターのものも、子ども向けのプログラムは両方作った。例えば、私の出身地ではほぼ一年中サッカーをすることはできたけれど、カナダでは簡単ではない。運良く、たくさんのドーム球場でその問題を解決することはできたんだけどね。興味深かったのは、カナダでは「プレーするためにお金を払う」システムになっていたんだ。つまり、親は高額の出費を強いられるということ。5月から9月までの期間で500ドルから600ドル(約55000円~66000円)は出さないといけない。それでもまだ安いほうだ。ジャージー州なんかではもっと高かった。ハイパフォーマンスセクターでやっていくには、年間4400ドル(約49万円)に加えて旅費が必要だ。


――親はそんな大金を払うんですか?


そう。カナダの親は払う心づもりができているんだ。良いコーチのもとで子どもに良い教育をうけてほしいと願っているんだ。彼らは子どもに投資するし、子どもは投資に値する存在と考えている。もちろん高額なのはわかっているけれど、それ自体は悪い姿勢ではないと思う。もしかしたらドイツでも考えてみる余地はあるのかもしれない。でも、経済的支援が得られない子どもをサポートして育てていくことも重要だろうと思う。いずれにせよ、ドイツサッカーのために働いてくれているたくさんのボランティアの功績が十分に認められていないのではないかと思うよ。カナダでは女子サッカーのU8リーグに20チームが参加していた。こんなこと、ドイツでは見かけないだろう? 北アメリカのサッカーを馬鹿にしている奴らの気が知れないよ。


■興味深いカナダの若手育成手法



――カナダでは一般的なものとは少し異なるアプローチを練習に取り入れるそうですね。ご説明いただけますか?


カナダでは、子どもをプロのアスリートにすることに重点を置いていないんだ。第一に、運動を楽しむことと、健康に生活することに力点を置いている。これは重要なことだよ。だからカナダの子どもたちは一つのスポーツだけに固執することは絶対になくて、その結果彼らは複数スポーツをこなすアスリートになる。だからあるスポーツの技術を他のスポーツに転用できるんだ。これははっきり言えることだけど、彼らは速くて、賢くて、ドリブルもできる。一日中サッカーばかりをやっているドイツの子どもとは全く違うポートフォリオを持っているよ。一つのスポーツに早くから特化するのは良くない、とスポーツ科学者はみんな言っている。けれど、サッカー界ではパフォーマンスセンターで1週間ずっと練習させつづけている。みんな分かっているけれど、変えることができていない。もちろんまだまだ優秀な選手がドイツにいるけれど、既成概念の枠を離れて、世界ではどういう指導がされているのか見てみるべきだと思う。面白いのは、カナダはアイスホッケーの代表チームで同じ失敗をしてしまって、スカンジナビア半島のチームに実力で抜かれてしまったことだ。ここでも今変化が起こっているよ。


――カナダでは若手育成の面で、パーソナリティの発達にはどのように向き合っているのですか?


まずオープンなチームを作ることだ。1軍、2軍、3軍、なんてものはなく、ひとつのチームという意味だよ。優れた選手になるためには、チームワークを学び受け入れて、自分とはレベルの違う子ともプレーして、レベルを引き上げてやることを覚えるんだ。そうすることで、子どもたちは早いうちから失格の烙印を押されたりしないし、後から実力をジャンプアップさせるチャンスも回ってくるようになる。


私は「得点しなきゃピッチに入れない」という考え方にも向き合わなければならなかった。最初は耳を疑ったよ。なんだって? どうやったらそんなことができるんだ、とね。そんな考え方には最初は懐疑的だったけれど、受け入れないといけなかった。


大会で勝とうが負けようが、最初は大したことではないんだ。まずは子どもが楽しんで、自然に発達することからだ。ひとつはっきりしていることは、フィールドにいることがどんなことなのか子どもたちは分かっているし、子どもたちは勝ちたがってるってことだ。でもU13くらいになってようやく結果を話題にするようになる。他にも例えば、U9では子どもたちを5対5で、レフェリーなしでプレーさせるんだ。そうすると自分たちで試合をコントロールしないといけなくなるし、実際彼らはそうしていた。ちょうど校庭で遊んでいる子どもたちが、何がファウルなのか分かっているようにね。カナダでは、いくつかの点で私の見識が広がったと思う。


――では、カナダでは最高の生活を送ることができたんですね。


私たち家族はトロントのダウンタウンに住んでいて、目の前にはオンタリオ湖が広がっていた。まさに写真集を見ているような光景だった。


――それでは、なぜロコモティフ・モスクワのオファーに応じたのでしょうか。


まず初めに社長のイリヤ・ゲルクスから要請があったんだけど、想像すらしていなかったことだった。また、「遠くに」いくのか?ってね(笑)。カナダで私はハッピーだったし、居心地は良かった。一度はロシアを見てみようと決めたけれど、寒空のなか3500人ぽっちの観客の前で行われたアフマト・グロズヌイとの試合が私の第一印象だった。最悪だ!と思ったね。けれどクラブの状況をよく見てみると、とくに施設面ではアカデミーやクリニックを持っていて、クラブは最高の状態にあることがわかった。それでも、このクラブは設立10年目だった。私は気が変わってしまって、長いディスカッションのあと、このクラブの歴史にチャンスを与えようと思って承諾したんだ。


――果たしてそのプランは成功しましたね。あなたはロコモティフをチャンピオンに押し上げました。そして、今の状況はシャルケのときと同じでしょうか。


そのとおり。以前シャルケのときにそうだったように、私たちは決定権を失ってしまった。一回失敗して臆病になってしまっていたので、決定権を手離さないように力をよりいっそうつけようと思ったんだけどね。


タイトルを取ったときは、本当に安心したし嬉しかった。チャンピオンズリーグでは残念な結果に終わってしまったけれどね。シャルケと同じグループで戦えたのは嬉しかったよ。私のキャリアが描いた円が20年経って閉じたような感じだった。けれど、私たちはあのグループでもっとやれると思っていたから、結果は非常に残念だった。いくつかの試合では我々のポテンシャルを下回るプレーをしてしまったし、ここで生きている証を見せることはできなかったね。


――モスクワでの物語は早々に終わりました。何が決め手になったのでしょうか?


全て家族ありきで決めているんだ。いつでも世界中を飛び回れるわけじゃない。家族が新天地を気に入って溶け込んでいかなくてはいけないからね。だけど、ロコモティフ・モスクワがチャンピオンになってカップ戦も優勝したのを見て、私も一年だけやりたい気持ちになったんだ。クラブが成功を収めてから、次のチャレンジを見つけることには少しの間苦労した。モスクワでの生活は快適だったし最高の時間だったけれど、だんだん考えを整理していくうちに、次の目標を探そうという気持ちになった。私が100%は関われなかったところでクラブが発展しているのを見て、このクラブの新しい方向性から離れる良いタイミングだと思ったんだ。そう思ったらきっぱり決断しないといけない。


■次なる行き先は?



――それ以来、あなたにはいくつか移籍の噂があります。マンチェスター・ユナイテッドがあなたと契約しようとしているとも言われています。あなたが興味深いと思える、次の仕事は何になるのでしょうか?


良い質問だね。クラブの知名度は問題じゃない。最初はロコモティフ・モスクワに行くことも考えていなかった。もともと関係が全くなかったからね。私の人生を満たしてくれるプロジェクトを見つけることが大事なんだ。クラブの哲学と私の考えが一致している必要があるし、クラブも私が成長できるビジョンを探さないといけないと思う。そうすれば、モスクワで社長と私が築き上げたような信頼関係が出来上がるはずだ。移籍市場での私の評価は良くないかもしれないけれど、最近社長が私に、2年間でクラブの規模が6300万から1億1100万(ユーロ)まで上がったと教えてくれた。同時にファンもたくさん獲得できた。ライブミュージックを導入したりして、最終的には平均観客数をほぼ2倍にすることができた。これらのモスクワの試みは私にとってもエキサイティングだったし、そういう経験を今も探しているんだ。優勝を経験したことがないクラブとか、認知すらされていないようなクラブもいいかもしれない。


――モスクワでの仕事の傍ら、エウロペア・デ・マドリード大学でマネジメントのMBA(経営学修士号)を修得されています。どうしたらそこまでクレイジーになれるのでしょう?


(笑)。カナダの話に戻るのだけれど、そこではメンタリティは生涯学習の一貫だと考えられていた。私もその考えに感化されてしまったんだ。今でも覚えているのが、カナダで週末をまたぐトレーニングを提案しようとしたら、誰も来ないからやめたほうがいいと止められてしまったんだ。その意見に反して、デスクの上にはすぐさま35から40の応募が上がった。長期間学び続けることが私に欠けていたことなんだ。ロシアの空路は永遠に感じるほど長かったからそういうアイデアも思いつくし、ハバロフスクの手前くらいでいろいろやることができて嬉しかったよ。大学でもたくさんのことを学ぶことができた。将来、スポーツディレクターは選手の売買よりもずっと高いステージを担当することになると思う。それはスポーツのディレクターというよりはビジネスの中核のような仕事だけれど、例えばバランスシートを読んでクラブの全ての状態を把握しないといけなくなる。最初にそれをやるチームが先導役になるけれども、私が踏み出す一歩が他の領域に直接影響を与えられればいいと思っている。いつだってそういう連鎖反応が生まれるはずなんだ。この仕事においては、かつて良い選手だっただけでは不十分なんだ。


インタビュー・文=フロリアン・レーゲルスマン/Florian Regelmann


構成=Goal編集部




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記事提供:Goal

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