偉大なサッカー選手、内田篤人が現役引退。ピッチを駆けた軌跡を振り返る

COLUMN河治良幸の真・代表論 第63回

偉大なサッカー選手、内田篤人が現役引退。ピッチを駆けた軌跡を振り返る

By 河治良幸 ・ 2020.8.22

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内田篤人が現役を引退する。数々の栄光、そして怪我と向き合った日々を経て、8月23日の鹿島アントラーズvsガンバ大阪がラストマッチになることが発表された。


彼がプロサッカー選手として走り続けてきた14年半で、日本サッカー界は色々なことを経験した。清水東高時代のU-16から日の丸のユニフォームに袖を通してきた内田は鹿島に加入し、当時のパウロ・アウトゥオリ監督にスピードとセンスを評価されて、クラブ史上初となる高卒ルーキーでのスタメン出場。オズワルド・オリヴェイラ監督時代には、主力としてリーグ3連覇に貢献した。


A代表に初招集されたのが、2008年1月のキリンチャレンジカップだった。その後、北京五輪のメンバーに選ばれると、”岡田ジャパン”で挑んだ2010年の南アフリカW杯にメンバー入りしたが、本番前に守備的な戦術にシフトしたこともあり、4試合で一度も出場はかなわなかった。


大きな転機となったのは、2010年7月のシャルケ04への移籍だ。秋には新たな環境にフィットしてポジションを掴むと、欧州チャンピオンズリーグの舞台で輝きを放った。なかでも、右サイドのファルファン、エースストライカーだったフンテラールとのホットラインは大きな注目を集めた。


シャルケが欧州CLのベスト4に躍進したこのシーズン、2011年の3月11日に東日本大震災があり、多大な被害を受けた。その翌日に行われたブンデスリーガの試合後に、テレビカメラを通して「日本の皆へ。少しでも多くの命が救われますように。共に生きよう!」というメッセージを被災地に送り届けた。


欧州CL準々決勝で、日本人対決が実現


ベスト4をかけて戦った相手は、長友佑都を擁するインテル・ミラノだった。長友がベンチスタートだった1stレグに5-2で勝利し、ベスト4に大きく前進。2ndレグでは、対面するカメルーン代表FWエトーを封じながら、攻め上がってくる長友にも柔軟に対応し、合計スコア7-3でのベスト4進出に大きく貢献した。結果は内田のシャルケに軍配が上がったが、日本人選手がCLの準々決勝という大舞台で対戦したことは、日本サッカー史の大きな節目と言える。


日本代表では、アルベルト・ザッケローニが率いた”ザックジャパン”で、主力として2011年1月のアジアカップを制覇。そこからセンターバックの吉田麻也、左サイドバックの長友佑都、ボランチの遠藤保仁、長谷部誠たちと完成度の高いチームを作り上げた。


当時の基本構成に関して、内田は「左のヤットさん(遠藤)、(香川)真司、(長友)佑都くんの3人で作って、右の岡ちゃん(岡崎慎司)で仕留めるスタイル」と語っていた。「自分は隅っこの人間」と表現しながらも、右サイドからビルドアップに関わり、攻守のバランスを取りながらタイミングよく攻撃参加することで、”ザックジャパン”を支えた。


日本代表は2013年のコンフェデレーションズカップでイタリアに善戦するなど、本大会に向けて順調にチームが仕上がってきているかに見えた。その過程において、いわゆる”自分たちのサッカー”が出回る中で、「チームが勝つこと」を、何より優先する内田の発言は際立っていた。


ブラジルW杯での活躍


2011年の秋から、筋肉系の度重なる怪我を経験しながら、ほぼフル稼働していた内田。2014年2月に右太腿と膝の腱を同時に負傷し、一時はブラジルW杯が絶望的に。シャルケのチームドクターなどに手術を勧められたが、帰国後に日本代表のドクターと話し合い、リハビリの道を選択。そして本大会にギリギリで間に合った。


2014年のブラジルW杯で、筆者が強く記憶しているのが、ギリシャ戦終盤のオーバーラップだ。前半38分に一人退場し、10人で守るギリシャに対して隙を突いた内田は、右サイドからクロスというよりもラストパスと表現するべきボールを中央に入れたが、手前にいた岡崎、香川の反応が遅れてクリアされてしまった。


試合後、内田にこのプレーについて聞くと、ギリシャのサイドバックとセンターバックの間にギャップが生じることを見抜き、狙い通りのプレーだったことを明かした。この試合、日本は多くのチャンスを逃したが、日本側の呼吸さえ合えば、最大の決定機になっていたシーンだった。


グループリーグ敗退に終わったブラジルW杯で、内田はチーム最高レベルの評価を受ける活躍を見せた。当時を振り返れば、バランスワークを重視していた内田が、リミッターを外したようなパフォーマンスだった。膝のリスクを抱えながら。


内田といえば、ブラジルW杯での”代表引退騒動”があったが、実際はその場で4年後のロシアまでやるという明言を避けたことが、報道の一人歩きに繋がってしまったようだ。


長いリハビリ生活に突入


ブラジルW杯後のシーズンは怪我の影響で出遅れながら、9月に復帰を果たすと、右膝にテーピングをしながら試合に出続けた。しかし、”アギーレジャパン”で臨んだアジアカップは辞退となった。くしくも内田に代わり、追加で初招集となったのが、鹿島の後輩である植田直通だった。


内田は”ハリルジャパン”の初陣となった2015年3月の招集に応じ、周囲の心配の声もあがる中、チュニジア戦の終盤とウズベキスタン戦の前半に出場。これが日本代表での最後のプレーとなった。


同年6月には、ついに手術を決断。そこから1年9ヶ月という長いリハビリ生活が待っていた。もっと早い復帰を期しての決断だったはずだが、リハビリがなかなかうまく行かない状況で、シャルケの理解を得て日本でリハビリをすることになる。そこから復帰までの過程で、内田は一度だけ日本代表に”復帰”した。


2016年6月に行われたキリンカップに向けて、欧州組を中心とした事前合宿が千葉県内で行われた。そこに同じくリハビリ中だった武藤嘉紀、山口蛍とともに内田の姿があった。


「リハビリが長い繰り返しの中で、環境を変えて、しかも日本代表のトレーニングに呼んでくれるっていうのはすごく有難いですし、一人でリハビリをやるよりも外でみんながサッカーをやっている中で、同じグラウンドでやらせてもらえるのはすごく有難いですね」


そう話した内田は「サッカー人生がかかっちゃっているケガ」と表現しながら「ここで俺が『ムリだ』って言ったらムリになっちゃうので。サッカー選手の1年半とか2年はすごい長いからね」と語っていた。


「絶対もう1回、帰ってくるって思いながら。他の人とは違うからね、怪我が。でもいいの。そうやってW杯もチャンピオンズリーグもある程度、負担がかかると分かってて、自分がやったんで、悔いはないです」


日本代表復帰に向けた待望論


内田は同年12月のヨーロッパリーグで復帰を果たしたが、リーグ戦の出番がない中で、当時ドイツ2部だったウニオン・ベルリンへの移籍を決断。主な理由は日本代表に復帰し、1年後に迫っていたロシアW杯に出るため。しかし、9月に2試合出場した後、10月に肉離れが再発。出番が訪れぬまま、ロシアW杯までの半年を、信頼できるメディカルスタッフのいる鹿島に託し、古巣への復帰が発表された


最後の代表招集となった2015年3月からロシアW杯前まで、”内田待望論”はメディア、サポーターから何度もあがった。それだけ偉大な選手であり、サイドからゲームをコントロールできる異才は得難いものだった。ブラジルW杯では内田の控えだった、酒井宏樹の成長は目覚ましかったが、一方でいざという時に頼れる内田の必要性はささやかれ続けた。


2015年11月、ロシアW杯アジア二次予選のカンボジア戦で、長友に内田の復帰について聞いたことがあった。


――以前、内田選手はこんなことを言っていました。「佑都くんがガンガン上がるから、僕は様子を見ながらタイミングをみてスルスル行くよ」と。でも今は長友選手が左右のバランスを考えながら、効果的に攻め上がるビジョンを高めています。内田選手が戻ってきたら、新たな化学反応が起こるのでは?


長友「楽しみですね。彼みたいな最高のレベルのサイドバックが逆サイドにいるっていうのはね。僕自身も、彼に支えられてガンガン行く部分がありましたから。でも逆に、僕もいろんな経験を積んで、彼にガンガン行かせて僕がバランスをとる時間も、試合の中でやっていきたいと思います」


結局、このコンビの復活はその後の日本代表で見ることはできなかったが、内田の現役引退が伝えられた直後、長友が自身のTwitterで「篤人、一生忘れないからな!ありがとう!!」と短くも思いの伝わるメッセージを残している。


鹿島のACL制覇で見せた輝き


鹿島復帰後の内田は、2年半でリーグ戦23試合(ラストマッチを除く)、ルヴァン杯4試合、天皇杯4試合、ACLが4試合、そしてクラブW杯が3試合と、実働時間は決して長くない。しかし、必要と感じれば同じポジションのライバルであろうと惜しむことなく伝え、後輩たちを見守る内田の存在は大きかったはずだ。


復帰後の内田がもっとも存在感を示したのは、2018年のACLだった。20冠目のタイトルにして、初のアジア制覇を成し遂げた鹿島だったが、内田の活躍を抜きに語ることはできない。そしてクラブW杯でのプレーには、熱いものが伝わってきた。


奮闘及ばず、準決勝でレアル・マドリーに完敗。何もできずに試合を終え、人目もはばからず涙を浮かべた安部裕葵の姿を見て、内田がこんなことを言っていた。


「自分は向こう(注・ヨーロッパ)でああいう相手を経験して、こっちに帰ってきたんだけど、まあなんとなく、今日の試合をやって諦めない裕葵とか観てて、ああ、俺もやってたなって。マンチェスター・ユナイテッドかな。左サイドまでボール取りに行ったなと思った。そういう若い選手にとって、今日のああいうレベルの相手というのが、もう追いつけないと思うのか、自分がヨーロッパに行ってやってやろうと思うのか、そこで選手の位置が変わってくる」


「マンチェスター・ユナイテッド、レアル・マドリーともやりましたし、チェルシー。子どもみたいに扱われて、今まで自分がやってきた(感極まって、言葉に詰まる)分かるんだよ、裕葵の気持ちが。自分がやってきたものがね、ボールを蹴り始めてから、差を痛感すると間違ってたのかなとか。裕葵の気持ちはわからないけど、もう追いつけないのかなとか。それを思い出した、俺も」


「誰でもいいよ、日本人。ああいうクラブでね、スタメンでバリバリやれる選手が出てきたら面白い。それが裕葵なのかは知らん。涙を見てたら可愛いなとも思うし、自分もあったなとも思うし、歳をとったね。可愛いね。泣くか? 泣かなかったかな。こういう対戦させてもらう感じを、レアル・マドリーの選手が知ってるのか知らないのかは、わからないけどね」


「今日のあいつの涙は、今後の日本サッカーにとっていいきっかけになって欲しいなって。それだけのポテンシャルがあいつにはあるから。直接本人には言わないよ。恥ずかしいし。なんか上から目線だし、言わないけど、(自分も)そう言うことがあったなって。1人で逆サイドまで来たりしてたのって。(安部の終盤のがむしゃらなプレーは)嬉しかったね」


その安部は2019年のコパ・アメリカでA代表の一員として戦い、バルセロナに挑戦の環境を移した。内田が鹿島に復帰後、愛弟子のようにアドバイスを送った安西幸輝はA代表の一員になり、ポルトガルで挑戦を続けている。内田が怪我というリスクに向き合いながら走ってきた道を、さらに切り開こうとする後輩たちが続いていく。


サッカー選手として、輝かしい現役生活にピリオドを打つ内田篤人に、ラストマッチの結果がどうなろうと「本当にお疲れ様でした。素晴らしいネクストステージを願っています」と言いたい。(文・河治良幸)


写真提供:getty images

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河治良幸

河治良幸

サッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』の創刊に携わり、現在は日本代表を担当。セガのサッカーゲーム『WCCF』選手カードデータを担当。著書に『サッカー番狂わせ完全読本 ジャイアントキリングはキセキじゃない』(東邦出版)『勝負のスイッチ』(白夜書房)、『サッカーの見方が180度変わる データ進化論』(ソル・メディア)、『解説者のコトバを聴けば サッカーの観かたが解る』(内外出版社)。

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